
芸術家を集めバレエを総合芸術へ
Ballets Russes
Serge de Diaghilev
バレエ・リュス/セルジュ・ド・ディアギレフ
バレエ・リュスはロシア人貴族セルジュ・ド・ディアギレフ(注1)が創設したバレエ団。
バレエ団はオペラ・ハウスに所属するのが当然の時代に
ディアギレフ個人によって創設された世界初のプライベート、ツアリング・カンパニー。
フランス語でロシアのバレエ団という一般名詞「バレエ・リュス(Ballet(s) Russe(s))が1990年代まで
彼らのカンパニーの事をさした事からもその影響力の大きさがわかるだろう。

改革を受け継ぎ進化を続けた
Ballets Suedois
Rolf de Mare
バレエ・スエドワ/ロルフ・ド・マレ
スウェーデン貴族、ロルフ・ド・マレ(Rolf de Mare)が創設したバレエ団。
バレエ・リュスの影響を受けて結成された多くのカンパニーの中でも
ディアギレフが脅威と感じたほどの斬新な作品と、スウェーデンの大地主貴族でもあるマレの
潤沢な費用によって活動したカンパニー。
バレエ・リュスに倣う形で、名称も「スウェーデンのバレエ団」を意味する
普通名詞、バレエ・スエドワ(Ballets Suedois)をカンパニー名とした。
ARTIST

レオン・バクスト
Lèon Bakst
(1866年-1924年)
画家、舞台美術、衣裳、ファッション・デザイナー
バレエ・リュスのイメージを決定づけたデザイナー。圧倒的にカラフルで時に「官能的」と言われた色彩はパリの観客を一夜にして虜にした。
中産階級に生まれた、ユダヤ系ロシア人。
ロシア、ペテルスブルグ芸術大学を卒業後、フランスのアカデミー・ジュリアンにも学んだ。1899年の創刊当時からディアギレフの『芸術世界』の重要なメンバーとして活躍。その色彩とデザインはファッション、室内装飾、テキスタイルへと幅広い影響力を持った。
バレエ・リュスに参加しながらロシアにもしばしば帰国し教鞭もとり、帝室芸術アカデミーのメンバーとしても活躍。生徒にはマルク・シャガールがいる。
手がけたバレエ・リュス作品:
『クレオパトラ』(1909)、『シェエラザード』『カルナヴァル』『ナルシス』(1910)、「薔薇の精」(1911)、『青い神』、『牧神の午後』『ダフニスとクロエ』(1912)、『眠れる森の美女』(1921)
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ジョルジュ・バルビエ
George Barbier
(1882年-1932年)
画家、イラストレーター、舞台美術、衣裳デザイナー
バレエ・リュスの公演に衝撃を受け、レオン・バクストのデザインに触発され、中国、日本、ペルシャ、中東といったオリエンタルなイメージを取り入れた独得のデザイン・センスで現在でも世界中にファンを持つアール・デコ期に活躍したイラストレーター。ポショワール技法で制作された画集『ニジンスキー』(1913)、『カルサヴィナ』(1914)はバレエ・リュスのイメージの極めて分かりやすく鮮やかな表現となっている。
フランス、ナント生まれ
1908年からパリ、エコール・デ・ボザールに学ぶ。1910~1920年代の代表的なファッション雑誌『ジュルナル・デ・ダム・エ・デモード』『ガゼット・ドゥ・ボン・トン』などでファッションプレート画家としても活躍。挿絵本を多数手がける一方、カルティエ、ルノーといった商業広告、ポール・ポワレ、ジャンヌ・ランヴァン、マドレーヌ・ヴィオネといったファッションブランドとの仕事も多い。
1920年代にはエルテと共にミュージック・ホール、フォーリ・ベルジェールの衣裳デザイナーとしても活躍、劇場とも非常に関わりの深いデザイナー。
50歳の人気絶頂期に死去。
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ヴァランティーヌ・グロス
Valentine Gross
(1887年-1968年)
画家、作家
ディアギレフに許され、バレエ・リュスの多くのリハサール、公演に出席し多数のデッサンを手掛けた。ニジンスキーの熱烈な支持者でもあり、彼女が描いた『春の祭典』や「薔薇の精」のデッサンはバレエ・リュスのプログラムにも多数掲載され、『シェエラザード』は表紙となった。動画のない時代、とりわけ彼女が描いた『春の祭典』のデッサンは後の再現上演にも役立っている。
バレエ・リュスだけではなくバレエ・スエドワからも依頼を受け、1921年『エッフェル塔の花嫁花婿』のデザインを手掛けている。
フランス生まれ
父から劇場芸術、音楽好きを受け継ぎ、学生時代からデッサンで多数の賞を受ける。1907年からパリ、エコール・デ・ボザールで学ぶ。ジャン・コクトーの紹介で後の夫ジャン・ユーゴ(ヴィクトル・ユーゴの孫)と出会い結婚した(のちに離婚)。シュールレアリストとの関係も深く、ダリやエルンストとも公私ともに親しく付き合った。
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ゲルダ・ヴィグナー
Gerda Wegener
(1866年-1940年)
デンマーク出身、画家、イラストレーター
アール・ヌヴォー、アール・デコ両方の時代の絵画、イラストを手掛けた。アーモンドアイの美女は代表的なモチーフだが、デンマーク王立バレエ団のバレエ・ダンサー、ウラ・ポールセンはお気に入りのモデルだった。
幼い頃から絵の才能を発揮し、デンマーク王立美術学校で学んだ。美術学校で夫アイナー・ヴィグナーとで出会い、後に結婚した。彼は後にリリー・エルベとして世界初の性別適合手術を受け、ゲルダはそれを支え続けた。
1907~1908年にコンクールで優勝し一躍時の人となった。ファッションとの関係も深く、『ヴォーグ』『ゲテ・パリジェンヌ』などに多数のイラストを寄稿。母国デンマークよりパリで有名となった。
エロティカ絵画や挿絵も多数手がけており、その画業全体についてはまだ分かっていない点も多い。日本では荒俣宏が『女流画家ゲアダ・ヴィーグナーと「謎のモデル」~アール・デコの埋もれた美女画』(早川書房)が出版されている。
映画『リリーのすべて』(原題:The Danish Girl)はゲルダの夫を主人公としている。
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ヴァレンテン・セローフ
Valentin Serov
(1865年-1911年)
画家、肖像画家
セローフが描いた『ラ・シルフィード』を踊るアンナ・パブロワのポスターは、1909年のバレエ・リュスのヨーロッパデビューを牽引した存在。縦が2メートルを超える大きなポスターはパリの街角を飾り、バレエ・リュスのスタートを予告した。
ロシアの作曲家夫妻に生まれ、ドイツ系ユダヤ人の血をひく。ペテルスブルグ芸術大学美術アカデミーに学ぶ。『芸術世界』に参加した一人でもある。
肖像画を得意とし、俳優、画家、作家といった芸術家を特に好んで描いた。
バレエ・リュスにも参加したコンスタンチン・コロヴィン、『シェエラザード』を去曲したニコライ・リムスキー=コルサコフ、オペラ歌手フョードル・シャリアピン、バレエ・リュスの最強の女性スタータマラ・カルサヴィナ、イダ・ルビンシュテインらを描いている。また、皇族との関係も深く、ロシア皇帝ニコライ2世やその家族、上級貴族の肖像も多数手がけた。
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ジョルジュ・ルパップ
Georges Lepape
(1887年-1971年)
フランスの画家、イラストレーター、衣裳デザイナー
アカデミー・ユベールに学び、1910年のサロン・ドートンヌに出品し当時もっとも売れていたクチュリエ、ポール・ポワレに見出された。『ガゼット・ドゥ・ボン・トン』『ヴォーグ』『フェミナ』『ヴァニティー・フェア』などで売れっ子画家として活躍。
ニジンスキーを描いたイラストで一躍有名になり、バレエ・リュスのプログラムにも多数掲載された。
ヨーロッパでの活躍後、アメリカでも活躍し、ファッション・デザイナーとしても洋服のみならず、傘や帽子といったデザインも手掛け人気を博した。
レオン・バクスト、ポール・ポワレらによってフランスにもたらされたオリエンタルなモチーフやムードも得意としたが、1920年代にはアール・デコならではのラインや色彩でも一斉を風靡し生涯現役として活躍した。
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アンリ・マティス
Henri Matisse
(1869年-1954年)
フランスの画家
ダンスをテーマとした作品も多く描いた画家。バレエ・リュスでは『ナイチンゲールの歌』の衣裳と美術を手がけている。ディアギレフは作品の仕上がりに大変満足し、『放蕩息子』も依頼したいと考えたが、マティスには苦労も手間もかかった仕事で依頼を受けなかったという経緯がある。
だが、バレエの美術、衣裳の仕事にはやりがいも感じたようで、バレエ・リュス解散後バレエ・リュス・ド・モンテカルロでもプログラムの表紙やデザインを引き受けている。
アカデミー・ジュリアンに入学後、エコール・デ・ボザールを目指すが合格せず。しかしギュスタヴ・モローニ見込まれて個人レッスンを受ける。やはりモローに指導をうけていたジョルジュ・ルオーとは生涯の友人となった。初期は写実的なものから徐々に色彩とフォルムに向かっていった。
手がけたバレエ・リュス作品:『ナイチンゲールの歌』(1920)
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モーリス・ユトリロ
Maurice Utrillo
(1883年-1955年)
ユトリロは日本でも早くから紹介された。
ジョルジュ・バランシン振付の『バラボー』の美術、衣裳はユトリロ生涯唯一の舞台作品。背景に教会が登場するバレエ台本のために、ディアギレフの秘書ボリス・コフノが教会のある風景画で知られたユトリロを推薦したのが発端。ディアギレフはユトリロには一度も会わず、すべてのやりとりはコフノが行った。
上演回数が少なく、再演もされなかったため衣裳の保存状態は極めて良く、現在カナダ、国立キャンベラ美術館に収蔵されている。
母は画家シュザンヌ・ヴァランドン、父は諸説あるが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリリョが認知して以来「ユトリロ」と名乗った。中学までしか出ておらず、独学で絵を学び、1909年に画商がつき、サロン・ドートンヌに出展し活躍するようになった。
アルコール依存症と精神疾患に悩まされながら創作を続けた。
手がけた作品:『バラボー』(1925)
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マリー・ローランサン
Marie Laurancin
(1885年-1956年)
フランスの画家
パステルカラーの美しい色彩に彩られた優しい絵は日本でも人気がある。ローランサンが初めて手がけた舞台美術、衣裳デザインは『牝鹿』だった。社交界の「サロン」を舞台とした『牝鹿』の世界観が浮かび上がるデザインで今見ても魅力的だ。
その後も「ソワレ・ド・パリ」のために『薔薇』、その他『ジャンヌの扇』、ローラン・プティ『草上の朝食』など全部で10作品を手がけた。
画家としての成功は後にバレエ・スエドワを結成するロルフ・ド・マレが「少女たち」を過去最高額で購入したことがきっかけ。マレは死ぬまでその絵を手元に置き、現在はストックホルム国立美術館所蔵。
肖像画家としても知られ、マレの美術界への指南役で、後にバレエ・スエドワの美術・衣裳デザインも手掛けたニルス・フォン・ダルデルや社交界の人々、またシャネルら多くの著名人を描いている。
手がけたバレエ・リュス作品:「牝鹿」(1924)
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パブロ・ピカソ
Pablo Picasso
(1881年-1973年)
スペインの画家
1916年にディアギレフと知り合い、1917年初演『パラード』で初めて舞台の仕事を手がけた。最初の妻オリガ・ホフロワはバレエ・リュスのダンサー。長いリハーサルに立ち会った上でのデザインなどバレエとの関わりは非常に深く、1920年代までバレ作品に加えダンサーのデッサンも行った。公式プログラムにも多数掲載され、表紙になったものも多い。
バレエ・リュス以外にも「ソワレ・ド・パリ」公演で『メルキュール』(後にバレエ・リュス作品として上演)、ローラン・プティ振付『ランデヴー』、リファール振付『牧神の午後』、『イカール』なども手がけた。
画家で美術教師の父のもとスペインで生まれる。16歳で国立美術展入選、王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学、1901年にはパリで個展開催。作風は大きく変化した画家だがバレエ・リュスの仕事はキュビズム、新古典主義時代、シュルレアリスム。
手がけたバレエ・リュス作品:『パラード』(1917)、『三角帽子』(1919)、『プルチネッラ』(1920)、『クァドロ・フラメンコ』(1921)、『メルキュール』(1927)
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ジャン・コクトー
Jean Cocteau
(1888年-1963年)
フランスの詩人、作家、映画監督
女流階級の息子として生まれ、若くして詩人として社交界でかわいがられた。本人が後に「ディアギレフとであって僕は”社交界の軽薄王子”から”芸術家”になった」と語っている。ディアギレフに「僕をおどろかせてごらん」と言われて張り切って台本を書いた『青い神』が興行としてはあまり成功せず、そのくやしさをバネに1917年『パラード』を成功させた。
ディアギレフにピカソやグリスと行った画家を紹介したり、『牝鹿』『うるさがた』のアイディアを出したり、ポスターを描いたりと多方面で活躍した。
バレエ・スエドワにも参加し1921年『エッフェル塔の花嫁花婿』を手掛けている。藤田嗣治とも友人関係でコクトー来日の頃日本で再会を果たしている。
多才な後も「マルチ・タレント」的な才能を持つ人物で詩や小説、戯曲といった文才と画才だけではなく、映画監督としても活躍、『美女と野獣』や『オルフェ』などを生み出した。
手がけたバレエ・リュス作品:(台本)「青い神」(1912)、『パラード』(1917)、『青列車』
手がけたバレエ・スエドワ作品:(台本)『エッフェル塔の花嫁花婿』(1921)
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藤田 嗣治
レオナール・フジタ
Tsuguharu Foujita
(1886年-1968年)
日本生まれの画家
乳白色の肌の裸婦や猫を描いたことで知られる、1920年代パリ画壇「エコール・ド・パリ」の代表的な画家の一人。
学生時代から帝国劇場の舞台美術を手伝う事もあり、現在確認できるだけで生涯9作品の舞台美術、衣裳を手がけている。
1924年ロルフ・ド・マレの依頼でバレエ・スエドワの『奇妙なコンクール』の舞台美術・衣裳をデザインした。ギリシア神話の物語をゴルフ・コースに置きかえてみせた。この経験があったからこそ1946年戦後すぐの日本で初演された全幕『白鳥の湖』の美術・衣裳を手掛けることができたのだ。(2018年東京シティ・バレエ団が美術再現上演)
軍医を務めた藤田嗣章らの末っ子として生まれた。小山内薫は従兄、舞踊評論家蘆原英了、建築家蘆原義信は甥。1949年に離日、二度と日本には戻らずフランス国籍を取得、キリスト教徒としてフランスで生涯を終えた。
手がけたバレエ・スエドワ作品:『奇妙なコンクール』(1924)
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ココ・シャネル
Gabrielle(Coco) Chanel
(1883年-1971年)
フランスのデザイナー、クチュリエ
シャネル創業者。パリでバレエ・リュスの最も長きにわたるパトロネスで、ディアギレフの良き友人でもあったミシアからディアギレフに紹介された。
1920年の『春の祭典』の再演のための資金提供によってそれまで「お針子」と彼女を蔑んできた社交界がバレエ・リュスのパトロネスとして歓迎するようになった。『青列車』では衣裳をデザイン、『ミューズを導くアポロ』の新しい衣裳も手がけた。1929年ディアギレフがヴェネツィアで最期の時を迎える時にミシアと共に看病し、葬儀の全費用を負担した。
その後もコクトーの芝居の衣裳をデザイン。
洗濯婦の娘として生まれ、孤児院で育つ。6年間裁縫を学んだ後仕立て屋に勤め、ムーランに住んだ頃に「ココ」という芸名で舞台に立ち、歌うようになった。生涯唯一愛したと後に回想しているボーイ・カペルの出資で帽子屋を始めたのが転機となり(後に費用も返済)クチュリエへの道を歩むことになる。
手がけたバレエ・リュス作品:『青列車』(1924)、『ミューズたちを導くアポロ』(1929 年再演時)
DANCER

ワツラフ・ニジンスキー
Vaslav Nijinsky
(1890-1950年)
ダンサー、振付家
バレエ・リュスの最も有名なダンサー。跳んだまま降りて来ないとまで言われた類い稀な跳躍の高さでも知られる。
ダンサーの両親のもとに生まれ、ロシア帝室バレエ学校に学び、卒業と同時にロシア帝室バレエ団に入団。最初のシーズンから才能を発揮し、クシェシンスカヤ、プレオブラジェンスカヤ、カルサヴィナらトップダンサーのパートナーを務めた。
1911年からはバレエ・リュスの専属ダンサーとして活躍。ディアギレフに才能を見込まれ、彼の導きで1912年『牧神の午後』で振付家デビューを果たす。
跳躍で知られた彼の振付はバレエの根本である5つのポジンションすら否定する全く新しいもので、センセーショナルなものだった。その後『遊戯』(1913年)、『春の祭典』(1913年)、『ティル・オイレンシュピーゲル』(1917年)を振付けた。
南アメリカツアーの最中にダンサーとして参加していた女優の娘ロモラ・ド・プルツキーと突然結婚し、バレエ・リュスを追われたが、第一次世界大戦下のブタペストで「戦争捕虜」となった際にはディアギレフの計らいで北米ツアーに参加する名目で釈放された。この時に上演した『ティル・オイレンシュピーゲル』がバレエ・リュスで最後の振付作品となった。
その後、精神疾患を悪化させ、1919年にサン・モリッツで踊った『神との結婚』以後人前で踊ることはなかった。長い療養生活の末、1950年死去。
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DANCER

タマラ・カルサヴィナ
Tamara Karsavina
(1885-1978年)
ダンサー、バレエ教師
バレエ・リュスの最も有名な女性ダンサーとしてバレエ・リュスの全期間に渡って活躍した。ダンサーの娘として生まれ、ロシア帝室バレエ学校に学び、卒業と同時にロシア帝室バレエ団入団。1909年の初のバレエ・リュス、パリ公演からバレエ・リュスに参加した。ロシア帝室バレエ団の所属のまま、1918年まで活躍。以後はバレエ・リュスのメイン・キャストとして踊りながら、他のバレエや演劇にも出演。1918年に英国外交官と二度目の結婚をし、以後英国を中心に活躍。現英国ロイヤル・バレエ団の礎を作った人物でもある。
バレエ・リュスではニジンスキーから始まる歴代の男性スターのパートナーを務めた。『レ・シルフィード』『火の鳥』『薔薇の精』『ペトルーシュカ』といった多くの作品を初演している。
DANCER

ジャン・ボルラン
Jean Borlin
(1893-1930年)
ストックホルムの王立劇場バレエ学校に学び、卒業と同時に王立バレエ団に入団。フォーキンに学び、スウェーデンでバレエ・リュスの演目にも出演。ロルフ・ド・マレの協力を得て1920年にパリで初のリサイタル公演出演。
同年バレエ・スエドワの結成に際し、プリンシパル・ダンサーとして出演、振付、バレエ教師の多くの責を負う事になった。
1925年の解散までの全ての作品を主演。
バレエ・スエドワ解散後は南アメリカとパリでリサイタルを開催。米国でスタジオ・オープンと公演が予告されていたが、肝臓病を悪化させ37歳で死去。
その死を悼んでロルフ・ド・マレが世界初の「国際舞踊アーカイヴ」を立ち上げ、その主宰で世界初の「国際舞踊コンクール」を主宰した。
DANCER

アンナ・パブロワ
Anna Pavlova
(1881-1931年)
ダンサー
20世紀を代表するダンサーの一人。使命にかられるかのように世界中を旅し、バレエを伝え続けたダンサー。
ロシア帝室バレエ学校に学び、卒業と同時にロシア帝室バレエ団入団。1907年にミハイル・フォーキンが振付けた『瀕死の白鳥』は今でもしばしば上演されているが初演したのはパヴロワ。
1909年から1911年までバレエ・リュスに参加したが、以後は自らの一座を率いて世界を旅した。1922年来日し、日本縦断ツアーを行っている。初めて見たバレエがパヴロワだった日本人は多い。
1931年ハーグ公演の地で死去。その日の公演はパヴロワが踊るはずだった軌跡を照明が照らし、皆でその死を悼んだと伝えられる。
DANCER

ブロニスラワ・ニジンスカ
Bronislava Nijinska
(1891-1972年)
ダンサー、振付家、芸術監督、バレエ教師
ニジンスキーの妹、として知られるが、バレエ・リュス唯一の女性振付家でその才能をディアギレフは高く評価していた。
ロシア帝室バレエ学校で学び、卒業と同時に帝室バレエ団入団。兄ニジンスキーを追う形でバレエ・リュスに参加し、『カルナヴァル』『ペトルーシュカ』を初演。ニジンスキーの初振付作品『牧神の午後』では「大きいニンフ」を初演した。
現在であれば振付家として併記もしくはコラボレーターとして記載されるほどニジンスキーと密接に振付を行った。
第一次世界大戦中はロシアに帰国、バレエ教師としても活躍し、教え子にはバレエ・リュス最後のスターとなったセルジュ・リファールがいる。
1921年にバレエ・リュス唯一の全幕作品『眠れる森の美女』改訂振付のためにディアギレフから招かれ、その後『結婚』『牝鹿』『青列車』などを手掛けた。1925年からはフリーランスの振付家としてパリ・オペラ座やイダ・ルビシュテインのカンパニーとの作品を手掛けた。イダの所では『ボレロ』の振付を手掛けている。
バレエ・リュス・ド・モンテカルロ、クェヴァス侯のグランド・バレエなどでも活躍。その功績は再評価の途中にある。
DANCER

イダ・ルビンシュテイン
Ida Rubinsitein
(1885-1960年)
ダンサー、女優、ディレクター
裕福な家に生まれ、芸術に囲まれて育った。バレエを始めたのは20歳を過ぎてからと遅かったが、長身でスレンダーな身体は両性具有的な雰囲気もたたえており、時代の要求によく合っていた。男性を好んだマルセル・プルーストやガブリエル・ダヌンツィオらが熱狂的なファンとなった。
バレエ・リュスとの接点はバレエ教師として教えたフォーキンの推薦によるもの。ディアギレフは「プロ」のバレエ・ダンサーにしか関心がなかったが、彼女の独得の魅力、スター性に魅せられ、『シェエラザード』の「ゾベイダ」役にぴったりだと依頼した。実際この役を彼女ほど魅力的に踊った人はいない。イダはマイム役ではなく踊りたいと願い、1911年を最後に自らのカンパニーでの活動するようになった。
ダンサーとしてだけではなく、女優、カンパニーのディレクターとして活躍。スターツの『イスタール』をパリ・オペラ座で上演したり、『聖セバスチャンの殉教』などを上演。
『ボレロ』はイダが自分のカンパニーのためにラヴェルに依頼した曲。1939年の『火刑台のジャンヌ』を最後に舞台からは引退した。








































